池澤夏樹

きみのためのバラ (新潮文庫)

彼女はまたにっこり笑った。この笑いにぼくはつかまっているんだ、と彼は思った。 車内に置き去りにされた不審なバッグから離れようと妻に促されて、満員電車の中を移動しながら、男はかつて同じように混み合う客車の中を進んで行ったことを思い出す。ずっと昔の、日常の中でテロリストの存在を考えなくて済んだ時代。彼が手にしていたのは一本のバラだった。

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